重光葵記念館・・
2010-08-15


65回目の終戦の日・・・。

昨日午後、重光葵(しげみつまもる)記念館へ出かけて来ました。
この記念館は、奥湯河原にあった重光家の別荘を、10年ほど前にご子息が
激動の昭和史を伝える使命を感じ、そして父を偲んで開かれたものである。
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いままでに何回もこの道を通っていましたが、ここに記念館があることに気がつかなかった。.
今回、終戦の日を前に、外交官重光葵記念館を訪れ、彼の終戦への奔走と足跡を知ろうと思って・・・。「終戦物語」「東西の架け橋」「日米開戦」の3本のビデオを公開し、書斎机や手紙・写真などの遺品が提示された小さな記念館である。奥湯河原の深い緑を背にした静かな庭は、当時の姿を残しているそうです。
重光が浜辺で拾った小船の残材で作った手作りの炉が、心悩ます外交を忘れさせたひと時の憩いを思わせるもので印象に残りました。
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重光葵の名前は、無条件降伏後ミズーリ号上で降伏文書に調印した人物として認識している。実は、外交官・政治家としての経歴をすべて知ってはいない。
彼が駐華公使として昭和6年の上海事変の迅速な停戦に努力し、その後、爆弾テロで右足を失った事は知らなかった。その後、駐ソ・駐英大使そして外務大臣を務め、戦争終結に木戸内大臣と奔走し終戦への道筋をつけた。
そして、戦後処理の日本首席全権としての降伏文書への調印、どんな思い出で不自由な足でミズーリ号のタラップを登ったのか、想像する以上の思いが去来したであろう。
東京裁判で、禁固7年の有罪判決を受けるも、刑期を残し釈放される。
後日、キーナン首席検察官が、「重光は無罪であった。」と語っている様に、
彼が終戦平和工作に心血を注いだ事が明白である。

公職追放解除後、政治家ととして改進党総裁、日本民主党結成副総裁、
鳩山内閣副総理外務大臣として、戦後政界で活躍。
日ソ国交回復の交渉において北方領土問題解決に努力するも、4島返還は困難で歯舞・色丹両島返還を約しての平和条約締結を進言するが、鳩山首相の日ソ共同宣言による国交回復に終わり、今日まで、4島どころか2島も返還されないまま半世紀が過ぎようとしている。
ソビエトが崩壊しロシアは、領土問題を解決しないまま時を流していくだろう・・。
日ソ国交回復により、1986(昭和31)年12月、国連加盟が実現し、重光葵は、「東西の架け橋」演説を行った。
これが日本の外交に生涯をささげた最後の仕事となり、翌年1月湯河原で狭心症のため69歳で死去。あと数年、ソビエトとの因縁ある外交交渉が見て見たかったような気もする。
終戦の今日、彼の言葉を思い起こし、平和と友好を念じたいと思います。

重光外相は日本代表として、12月18に国連総会で加盟への謝辞とともに、

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